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「祈り」の場所

キリスト教ユダヤ教の会堂と日本の神社仏閣を比べると、いくつか大きな違いがある。

 

第一にキリスト教会の多くでは神父や牧師は会衆と直面して、祭壇に背を向けることが多い。

カトリックの場合は、多少祭壇(というよりも聖櫃)を向くことがあるけど、それでもミサのほとんどの時間は会衆側を向く(まあ、これに関しては第二バチカン公会議でたいへんな議論があったんだけど)。

キリスト教の場合、カトリックにしろプロテスタントにしろ、程度の差こそあれ神の遍在が意識されているから特定の方向に向く必要がないのかもしれないけど。

 

これに対して、神社仏閣の場合、僧侶や神官はほとんど祭壇側を向いている。

法話みたいなものが行われて参列者と向き合うことがあったとしても、時間的には圧倒的に参列者に背を向けていることの方が長い。

 

第二の違いとしては、キリスト教の教会と比べると、神社仏閣には「祈る」ための場が存在していない。

このように書くと意外に思われるかもしれないけど、例えばそこそこ参詣者がいる神社仏閣ではたいてい賽銭箱が置かれ、そこに向かって人々は列を作る。この時、実際に参拝できるのは最前列の人だけだ。最前列の人は後ろの人たちに気を遣って、形式に則った参拝はするけど、すぐにその場を後にする。

昔は参籠という形で長期間お寺などに籠るといいことも行われていたようだけど、それは稀な例だと思う。

ただ、その中で浄土真宗は例外的だと思う。例えば、京都の東西の本願寺に行くと、無料かつ自由にお堂の中に入り、いつまでもそこで祈る(真宗の場合、「祈る」という言葉には注意が必要なんだけど)ことができる。この点は、キリスト教浄土真宗の教義的な類似性が影響しているのかもしれない。

これに対して、東方正教会を除くと、キリスト教会には確実に何列もの椅子が用意されている。別に前に座ったからご利益があるなんて考え方はないから、人々は思い思いの場所に座って何時間でも祈ることができる。

 

つまり、日本の神社仏閣は宗教者と密に接触する機会も少なければ、個人が祈るための場もないということになる。

そのため、多くの日本人にとって神社仏閣は心が和む「風景」になってしまった気がする。

もちろん、夢窓疎石のように風景的なものの中に宗教的な真理を仮託しようとした人はいるけど、ほとんどの人はそれを読み取れない。

だから、もし神社仏閣以外に心が和むものがあれば、人々は簡単にそちらに移ってしまう。

 

日本はすごく豊かな宗教文化が持続してきた社会だから、やっぱりお寺がなくなってしまうのはすごくもったいないことだと思う。

そのためには、やはり本来の宗教的行為、つまり宗教者と信者や参詣者との密な交流と「祈る」ことの充実を図るべきじゃないかと思う。

 

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