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ぼくたちは友だちを2度殺してしまったのか?

このお盆に地元に帰省した際、小規模な高校のクラス会に出席した。

 

数年前、今回のクラス会と同じ会場で、学年全体の同窓会が開催された。

その時、ほとんど高校卒業以来ほとんど顔を合わせていなかったある友達と話をした。友人と書いたけど、高校の時もほとんど会話をしたことはなかった。

サッカー部に所属していて、スポーツが得意なかっこいい男だった。

明るくて、でも根は真面目で、やさしかった。だから、それほど付き合いのない、パッとしない自分のような人間にも、普通に声をかけてくれる男だった。もちろん、もてた。

大学を卒業した後、製薬会社に就職したようだった。

この前回の同窓会で話をした後、Facebookの友だちになった。時折、家族とスノーボードに行った写真などがアップされていた。

 

去年のこと、そんな彼が自殺したというにわかに連絡が入った。

後になってわかったことだけど、彼はここ数年、うつ状態だったようで、仕事も休職していたらしい。

 

40歳を過ぎると、本人も含めて周りの複数以上の人が精神的な不調に見舞われるのは、ごく普通のことだし、実際に今までもそういう人間はいた。

でも、ぼくの中で、明るいモテ男の彼とうつのイメージはまったく結び付いていなかった。だから、悲しいというよりも、ショックだった。

 

そんなことがあった後の今年のクラス会、彼が自殺して初めての同窓会、まあ偲ぶ会みたいなことにはならないだろうとは思っていたけど、驚いたことに彼のことは一言も話題に上がらなかった。クラス会の参加者の中には、同じサッカー部の奴もいたというのに。

 

なぜ、こういうことになったのかは、わからない。

本当はみんな意識していたのに何と話を切り出していいのかわからなかったのかもしれないし、明るい同窓会の場での自殺の話をすると場がしらけると思ったのかもしれないし、ひょっとしたら完全に彼のことを忘れてしまったのか、とにかく理由はわからない。

とにかく、彼の話はまったく登場しなかった。

また、実のところ、ぼくも彼の話を口にしなかった。

 

ぼくたちは、冷たかったのか。

ぼくは今年、大学院の指導教授を亡くした。その際、比較的淡々としているぼくら日本人とは逆に、同僚である韓国人の先生はまるで近親者を亡くしたように熱く涙を流していた。

そんな韓国の人から見れば、自殺した友人のことをまるで忘れてしまったかのように、彼のことを触れもしないぼくらは、冷酷きわまりない人間になると思う。

そして、ぼくらは、実際冷たいんだと思う。

何より、自殺した友人がぼくらの様子を見たら、きっと悲しい気持ちになると思う。

もし自分が死んだ側の人間だとしたら、生きている人たちには折りにふれてぼくのことを思い出して欲しい。懐かしんで欲しい。死んだことを惜しんで欲しい。

だから、彼もきっとそう思っていると思う。

 

人は2度死ぬといわれる。

1度目は肉体的に死んだ時、2度目はその人間の記憶がなくなってしまった時。

ぼくらは、彼をごく短期間の間で2度殺してしまったのではないか、そんな気がしてならない。

 

 

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宇多田ヒカルのこの歌は、「喪失」がテーマという説があるらしい。

一般的には喪失は生き残った側の意識だろうけど、本当の意味で喪失を味わっているのは死んだ当人だよ。