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sugimoto_t weblog

思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

「普遍」を意識すること

最近のいろいろな企業の不祥事を見ていると、自分も組織に属している人間なので、やはり組織のあり方みたいなものを考えてしまう。

 

僕の考えでは、やはりダメな組織、問題のある組織というものは、普遍的な視点が欠けている、もしくは普遍的な価値に対する意識が低い組織であることが多いように思う。

 

こういう組織は内部の経験値だけが判断基準や価値基準になる。

その組織の幹部になっているのはそういった基準を乗り越えてきた人間たちなので、彼らは当然のように、実はごく一部にしか通用しないかもしれない基準で下の人間たちを服従させようとする。

また、この手の幹部連中は、その組織の価値を決定する「教祖様」たちということになるので、彼らの意見に意義を差し挟むことはタブーになる。

 

そして、配下の人間たちは、誰も、何も言えなくなる。さらに、「教祖様」たちは、つけ上がる。

 

・・・といったところだろう。

 

もし組織の中にその組織の枠を超えるような視点を持った人が一定程度存在していたら、もし組織に普遍的な価値を意識する人がいたら、こんなことにはならないんじゃないか。おそらく、組織の自浄作用が働くんじゃないか。

 

よく組織の伝統をしきりに口にする人がいるけど、その伝統という奴が本当にこれからも価値があるものなのか、敬うべきものなのか、冷静に考えた方がいい。

もしその伝統が、組織外の人にも受け入れられるものであるなら、その伝統は今でも意味があるものに違いない。

でも、もしひかれたり、失笑された場合は、少し冷静になって考えてみた方がいい。

 

こういったことは、企業だけじゃない、部活動にも、政党にも、宗教にも、そして国家にも共通して言えることだと思う。

 

比較的、わかりやすいのは体育会だ。

体育会の上下の過度な主従関係や独自のルールは、その部から一歩でも出てしまうと、まったくと言っていいほど通用しない。それは何の普遍性も一般性も持たないからだ。

 

日本の文化や社会は、あまり「普遍」を意識してこなかった気がする。それどころか、歴史的に「普遍」を危険視する傾向が強かったように思う。

でも、「普遍」が存在しているからこそ、「個」は一層活かされる。

一部にしか通用しない個別が「普遍」と一体化していくことで、「個」はより広く受け入れられ、その力を増していく。

「普遍」を意識することは、「個」を否定しない。

 

個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。

三木清『哲学入門』(岩波新書、1976年)