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sugimoto_t weblog

思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

社会で生きる中で礼儀正しくあることの意味

社会や政治に関すること

僕が最近、「嫌だなぁ」と思っていることは、政治の世界をはじめ、社会の様々なところで乱暴で、攻撃的な言葉が飛び交っていること。

 

政治家の暴言や失言の類は、昔からあった。むしろ、昔の方が多かったかもしれない。

ただ、最高権力者や首長、組織・機関の代表者がそういったことを口にすることは少なかった。やはり、しかるべき立場の人には、しかるべき規範があったんだと思う。

ところが、「暴言ブーム」は、そういった指導的立場の人たちによって口火が切られたような気がする。社会の統合や包摂を目指すべき彼らの発言が、社会の分断の原因になっているんだから、彼らの責任は本当に重い。

  

他方、権力に対して批判的な人の中にも、とても強引で乱暴な言葉を使う人がいる。また、自分と異なる考えの人をひとまとめに愚弄したり、中傷する人も多い。

日本の場合、反体制的な人はリベラル的な人、護憲的な人、人権擁護的な人であるはずなのに。そして日本国憲法を守る立場なら決して他人をこき下ろすような言葉は出てこないはずなのに。

 

デモクラシーの時代、そしてインターネット上で誰もが発言力を持っている時代では、権力者の影響力と一般人・反体制側の影響力の違いは相対的なものでしかない。

つまり、もし過激で乱暴な言葉が飛び交っている現状があるとすれば、その責任はごく普通の人間である僕たちにもある。

もちろん、権力者と一般人の間には、責任の軽重がある。でも、僕らも社会の一員である以上、完全にそこから免責されるわけではない。

 

厳しい批判は絶対に必要だけど、傲慢であってはいけない。

 

仮に相手が問題のある政治指導者であったとしても、その人物を批判する際はそれなりに礼儀正しくあるべきだ。

「そんなことでは、弱者は強者に抵抗できない」という意見がある。

独裁国家の場合は、そうかもしれない。

でも、デモクラシー国家の場合は少し違うと思う。

 

礼儀正しく振る舞うことは、むしろ弱者に力を与えてくれるのではないか。

現実的な力に欠けているからこそ、にもかかわらず礼儀正しさを守ることの重みが増す。

礼儀正しく振る舞うことで、かえって弱者は強くなることができる。弱者が権力者の傲慢さに対抗するための最強の武器は、その礼儀正しさにあると思う。

相手がいきり立って、汚く乱暴な言葉で攻撃した時こそ、そして相手の力が強い時こそ、僕たちは穏やかで、冷静で、寛大でいたいと思う。

第三者が見たら、本当の勝者がどちらかは明らかだろう。

 

したがって、礼儀作法(ポリテス)は政治(ポリティック)にふさわしい規則である。この二つのことばは親類である。礼儀をわきまえた者、それこそが政治家である。

ーアラン、神谷幹夫訳『幸福論』(岩波文庫、1998年)315ページ

 

追記:

昨日、僕は「倫理的であること」 というテーマで記事を上げたけど、この内容はどう読んでも「礼儀正しくあること」に関する記事。ということで、タイトルと記事内容を少し修正した。

学生に対しては論理的な文章を書きなさいと普段指導しておきながら、そして日本倫理学会の会員でありながら、内容とズレのあるタイトルを付け、そして「倫理」という語を雑に使ってしまった。反省。