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思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

集団とのつきあいかた

企業だろうと、

政党だろうと、

学校だろうと、

宗教だろうと、

部活だろうと、

友達だろうと、

特定の集団の中だけに自分のアイデンティティを求めるようになると、

人間の視野は極端に狭くなるし、

考え方が硬直して柔軟性は無くなるし、

他人や外部を見る目は歪むし、

最終的に品性も卑しくなる。

 

人間には、集団に属することで学ぶものもある。

また、現実的に、人間は何らかの集団の中で、もしくは集団と関係を結ぶことでしか生きていくことができない。

だから、人間は、つい、自分の所属集団や自分と関係のある集団を過大に評価してしまう。

 

そのせいだろう、集団というものは、独善的になりやすい。

外部からみたら異常にしか見えないルールがまかり通ったり(たとえば体育会)、その内部でしか通用しないルールを外部にまで強制したりする(たとえば体育会出身の管理職)。

 

僕は以前、「普遍を意識しよう」と書いたけど、もちろんこれは集団という「全体」に自分という「個」を服従させると言う意味ではない。集団への執着と普遍的な視点や価値を重視することはまったく異なる。

むしろ、普遍的な視点を意識することは、集団の持つ独善性に毒される危険を回避する有力な方法になる。

 

でも、そういう姿勢を保とうとすると、必ず集団との軋轢が生じることになる。孤立は他との分断を意味するけど、孤高は他との闘いが伴う。

有能な人は孤高を維持することもできるだろうけど、自分のような凡人は集団に絡め取られながら、そんな集団の中で生きていくしかない。僕みたいな凡人でも、闘うことは難しくても、 集団の毒やいやらしさに注意することくらいはできるだろう。

今まで、僕はどの集団にも帰属意識を感じられないことがコンプレックスだったけど、こんなふうに考えてみると、それも悪くないなと思う。

 

本家の墓がなくなった!

先日、地元に戻った時に、本家のお墓に行ったら、更地になっていた。

 

僕の祖父は次男だから、うちは分家ということになる。

本家は戦前はそこそこの地主で、「他人の土地を通らないで、隣村に行くことができた」くらい、わかりやすくいえば村の土地の大半がうちの土地だったというくらいの資産家だったらしい。だから、古いたくさんのお墓を整理して大正期に作ったお墓もなかなか立派なお墓だった。

 

祖父は1976年に死去したが、本家とは別のお寺にお墓を建てた。

祖母と本家との折り合いがあまりよくなかったせいか、それ以来40年以上、葬式以外で本家と関わりを持ったことはほとんどない。

僕に至っては、一度も会ったことがない。

 

僕は、なぜか子どもの頃からお墓参りが好きで、幼稚園の頃は祖母と一緒にお弁当を持って祖父のお墓詣りに行っていた。だから、今でも帰省する度に祖父のお墓には行くんだけど、本家のお墓にはほとんど行ったことがない。数年に一度、近くを通った時などに立ち寄る程度。そして今回がその数年に一度だった。

 

両親とたまたま近くに行く用事があり、父が「久しぶりに本家の墓にでも行ってみよう」と言い出したこともあったので、本家の菩提寺に向かう。

田舎にはよくあることだが、近所はだいたい同じ名字だ。お墓も同様で、「どこだ?」少し探したが、本家の墓が見当たらない。そこでようやく、目の前の空き地が本家の墓の跡地だということに気がついた。

 

本家は、当主が若くして他界した後、後に残ったのが娘ばかりだったようで(付き合いがないからよくわからないんだ、このあたりの経緯が)、いわゆる墓じまいをしてしまったらしい。

 

かつての大名家や戦前の華族でも血統が絶えることは珍しいことではないので、わが家のような一般民衆の血筋が耐えたとしてもなんの不思議もない。

そうはいうものの、これまで長く続いてきたものが途絶えてしまい、その事実をお墓の空き地という形で見せられると、さすがになんとも言えない気分になる。

そもそも、お墓というもの事態がある意味でとてつもなく空しいものであるのに、そのお墓が取り除かれた跡なんだから、なおのこと物悲しい気分になった。

 

そして、今回本家のお墓が片付けられたことで、僕が動揺しているのにはもうひとつ原因がある。というのは、わが家のお墓も、本家のお墓と同じことになりかねないからだ。

僕は独身だし、年齢的に考えてこれから結婚しても子どもに恵まれるかどうかはわからない。そうなると、わが家のお墓も遅かれ早かれ片付けられてしまう恐れがある。

そして、これは、何代続いてきたかはわからないが、うち家系が完全に途絶えてしまうことも意味している。

 

普段、家系とか、血筋とか、先祖とかを意識することはほとんどない。

思えば、お墓は、そういったものすべての象徴なんだなということが今回よくわかった。

まあ、そういうことが理解できた一番の理由は、僕が年をとったということなんだろうけど。

 

「普遍」を意識すること

最近のいろいろな企業の不祥事を見ていると、自分も組織に属している人間なので、やはり組織のあり方みたいなものを考えてしまう。

 

僕の考えでは、やはりダメな組織、問題のある組織というものは、普遍的な視点が欠けている、もしくは普遍的な価値に対する意識が低い組織であることが多いように思う。

 

こういう組織は内部の経験値だけが判断基準や価値基準になる。

その組織の幹部になっているのはそういった基準を乗り越えてきた人間たちなので、彼らは当然のように、実はごく一部にしか通用しないかもしれない基準で下の人間たちを服従させようとする。

また、この手の幹部連中は、その組織の価値を決定する「教祖様」たちということになるので、彼らの意見に意義を差し挟むことはタブーになる。

 

そして、配下の人間たちは、誰も、何も言えなくなる。さらに、「教祖様」たちは、つけ上がる。

 

・・・といったところだろう。

 

もし組織の中にその組織の枠を超えるような視点を持った人が一定程度存在していたら、もし組織に普遍的な価値を意識する人がいたら、こんなことにはならないんじゃないか。おそらく、組織の自浄作用が働くんじゃないか。

 

よく組織の伝統をしきりに口にする人がいるけど、その伝統という奴が本当にこれからも価値があるものなのか、敬うべきものなのか、冷静に考えた方がいい。

もしその伝統が、組織外の人にも受け入れられるものであるなら、その伝統は今でも意味があるものに違いない。

でも、もしひかれたり、失笑された場合は、少し冷静になって考えてみた方がいい。

 

こういったことは、企業だけじゃない、部活動にも、政党にも、宗教にも、そして国家にも共通して言えることだと思う。

 

比較的、わかりやすいのは体育会だ。

体育会の上下の過度な主従関係や独自のルールは、その部から一歩でも出てしまうと、まったくと言っていいほど通用しない。それは何の普遍性も一般性も持たないからだ。

 

日本の文化や社会は、あまり「普遍」を意識してこなかった気がする。それどころか、歴史的に「普遍」を危険視する傾向が強かったように思う。

でも、「普遍」が存在しているからこそ、「個」は一層活かされる。

一部にしか通用しない個別が「普遍」と一体化していくことで、「個」はより広く受け入れられ、その力を増していく。

「普遍」を意識することは、「個」を否定しない。

 

個人にしても民族にしてもそれぞれ個別的なものであるが、単に特殊的なものでなく、同時に一般的なものである。個別性は特殊性と一般性との統一である。一般的な知識は個別的なものの認識にとって必要であるばかりでなく、つねに個別的な条件のもとに個別的な主体によって行われる行為にとっても必要である。

三木清『哲学入門』(岩波新書、1976年)