道徳と倫理は、似ているけど、別物だ。
たとえば、「誰かと会った時は、きちんと挨拶しよう」というのは道徳ではあるけど、倫理ではない。「何をもって、人間の死と考えるのか」というのは倫理の問題だけど、道徳の話題とは言えない。
僕の考えでは、道徳というのは、他律的で外在的なものだと思う。
だから、道徳は、組織とよく合う。
組織も元々は目的の実現のために存在していたはずだけど、組織が確立されていくにつれ、真の目的を次第に忘れていく。というよりも、組織の維持が第一の目的になってしまうことによって、当初の理念は脇に置かれるようになる。
そのような組織で重宝されるのが道徳だ。道徳は人びとの行動や思想を表面的に統制する。組織の維持のために、道徳ほど有効なものはない。ブラック企業や雰囲気の悪い運動部が、やたらと礼儀正しさ(道徳)を求めるのはそのためだ。
僕が道徳に縛られた代表的な人物としてイメージするのは、旧約聖書や律法の文面に振り回されていたパリサイ派だ。
パリサイ派は道徳を遵守していた。しかし、彼らはその道徳の本体の目的を忘れていた。道徳は本来神の愛の実現を助けるものだったはずである。だから、道徳の本来の目的を忘れた彼らの言葉や行いは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書 5:17)というイエスの言葉の前に、完全に無力化してしまう。
これに対して、倫理は個人的だ。
倫理は、その人間自身の生き方を問う。倫理では、つねに人は問いかけられており、考えることを迫られている。答えが出るかどうかはともかく、少なくとも答えを出すための努力は求められる。だから、倫理的であることは、自由であることも意味する。
同時に、倫理は普遍的でもある。
倫理に応える考察は、人間の自由の根本的な行為だとしても、普遍的な価値への配慮を含んでいる。たとえその人間が必死に考え出した答えであっても、たとえば倫理が殺人を容認することはない。だから、ラスコーリニコフは決して倫理的ではない。
かつて、宮台真司は、道徳を人間の視点、倫理を神の視点と表現していた(はずだ)けど、僕の理解もほぼ同じだ。僕が言う「普遍」は、宮台が言う「神」と取り替えることができる。この「神」はユダヤ・キリスト教的な神を言っているわけだけど、「神」は様々な場面で人間に対して規範的な問いかけを行う。人間は、この「神」に試されてばかりいる。そのため、人間はつねに自分に関する内省を要求され続けることになる。
だから、僕の中では、 倫理的に生きることと、内省的に生きることと、人間らしく生きることと、自由に生きることは同じ意味を持っている。
人間は、表面的な道徳に束縛されてはいけない。だけど、自分の行動や言動を省みることは必要だ。
また、過度に禁欲的・自虐的になってもいけない。欲求を満たすことも、また自分を適切にコントロールすることも、共に人間性のあらわれだと思うから。
倫理的な思考と行動を通して善悪のバランスを均衡させるのは、本当に難しい。完全な均衡状態を実現させるのは不可能だろう。
でも、その難しい目標を目指すこと自体が、そもそも倫理的なんだと思う。自分の中に価値的な緊張感を内在させて生きることは、まさに倫理が求めていることそのもののような気がする。