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sugimoto_t weblog

思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

マルクス・アウレリウスがしみる

最近、あのマティス国防長官も愛読しているというマルクス・アウレリウス『自省録』だ。

 

君がまわり道しいしい到達しようと希っていることは、これを自ら自分に拒みさえしなければ、どれでも今すぐに手に入れられるのだよ。それには全過去を打捨て、未来を摂理に委ね、ただ現在のみを敬虔と正義の方向へと向ければよいのだ。

マルクス・アウレリウス神谷美恵子訳『自省録』(岩波文庫、2007年)第12巻1

 

自分を悩ます問題の多くは、外からやって来る。自分が原因の問題であれば、それなりに覚悟もしているけど、外から唐突やって来る問題にはこちらも準備していないので、衝撃が大きい。

 

また、その問題が上手い具合に片付いてくれればいいけど、片付くどころかますます悪化し、最後にはその責任まで負わされることも珍しくない。

 

でも、それに頭を抱えていても、意味はない。

だって、よそから勝手にやって来るトラブルだから、こちらだって避けようがない。

 

だから、必要以上に未来を心配しない。今やるべきことをやって、あとは天に任せる。それしかない。

 

・・・なんてことを書いているということは、まさに今そういう状態だということなんだよね。

 

ブラック企業を判断する基準

大学生と話をしていると、いわゆるブラック企業について、たずねられることがよくある。

 

どのような会社がブラック企業なのか。

その判断基準はいろいろあると思うけど、僕はこう考えている。

「宗教や精神修養団体で、会社の正式な社員研修を行っている企業は注意した方がいい。」

 

企業というのはあくまでもゲゼルシャフトであって、社員の内面に介入するようなことがあってはならない。

宗教というものは、当然ながら、人間の内面に直接的に作用を及ぼす。

ある会社が正式な社員研修を宗教やその施設で行うとする。正式な社員研修ということは、その研修への参加は社命・公務になるため、従業員はそれを拒否することができない。つまり、企業が宗教施設などで社員研修を行うことは、絶対的な領域であるべき個人の内面に企業が強引に介入する危険性をはらんでいることになる。

こういった危険性に対する意識が欠如しているとすれば、やはりその会社はブラック企業である可能性が高いと思う。

 

そもそも、この類いの研修を行っている企業の経営者のうち、自分もそれに参加している人たちはどのくらいいるのだろうか。経営者は空調の効いた部屋で過ごして、社員だけに滝行をさせているような企業もかなり存在しているのではないか。

 

自分のことを棚に上げて、部下や従業員を鍛え直すことばかり考えているような経営者や幹部社員が、僕の周りにもいる。

やたらと部下のマナー知らずを責めているが、他のお客さんもいるイベントの中で大きな声で部下を叱責し、「飛ばすぞ」などと脅しているその上司の方がよほど不快で、マナー違反だ。

 

精神修養が必要なのは、新入社員ではなく、より重い責任を負っている幹部や経営者、指導者たちのはずだ。

にもかかわらず、部下にばかり厳しい研修を課しているような企業があるとすれば、そのような会社が風通しのよい会社であるはずがない。

少なくとも、僕は自分の学生たちにそのような企業は決してすすめない。

 

 

僕の考える道徳と倫理

道徳と倫理は、似ているけど、別物だ。

 

たとえば、「誰かと会った時は、きちんと挨拶しよう」というのは道徳ではあるけど、倫理ではない。「何をもって、人間の死と考えるのか」というのは倫理の問題だけど、道徳の話題とは言えない。

 

僕の考えでは、道徳というのは、他律的で外在的なものだと思う。

だから、道徳は、組織とよく合う。

組織も元々は目的の実現のために存在していたはずだけど、組織が確立されていくにつれ、真の目的を次第に忘れていく。というよりも、組織の維持が第一の目的になってしまうことによって、当初の理念は脇に置かれるようになる。
そのような組織で重宝されるのが道徳だ。道徳は人びとの行動や思想を表面的に統制する。組織の維持のために、道徳ほど有効なものはない。ブラック企業や雰囲気の悪い運動部が、やたらと礼儀正しさ(道徳)を求めるのはそのためだ。

 

僕が道徳に縛られた代表的な人物としてイメージするのは、旧約聖書や律法の文面に振り回されていたパリサイ派だ。
パリサイ派は道徳を遵守していた。しかし、彼らはその道徳の本体の目的を忘れていた。道徳は本来神の愛の実現を助けるものだったはずである。だから、道徳の本来の目的を忘れた彼らの言葉や行いは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書 5:17)というイエスの言葉の前に、完全に無力化してしまう。

 

これに対して、倫理は個人的だ。
倫理は、その人間自身の生き方を問う。倫理では、つねに人は問いかけられており、考えることを迫られている。答えが出るかどうかはともかく、少なくとも答えを出すための努力は求められる。だから、倫理的であることは、自由であることも意味する。

 

同時に、倫理は普遍的でもある。

倫理に応える考察は、人間の自由の根本的な行為だとしても、普遍的な価値への配慮を含んでいる。たとえその人間が必死に考え出した答えであっても、たとえば倫理が殺人を容認することはない。だから、ラスコーリニコフは決して倫理的ではない。

 

かつて、宮台真司は、道徳を人間の視点、倫理を神の視点と表現していた(はずだ)けど、僕の理解もほぼ同じだ。僕が言う「普遍」は、宮台が言う「神」と取り替えることができる。この「神」はユダヤキリスト教的な神を言っているわけだけど、「神」は様々な場面で人間に対して規範的な問いかけを行う。人間は、この「神」に試されてばかりいる。そのため、人間はつねに自分に関する内省を要求され続けることになる。

 

だから、僕の中では、 倫理的に生きることと、内省的に生きることと、人間らしく生きることと、自由に生きることは同じ意味を持っている。

人間は、表面的な道徳に束縛されてはいけない。だけど、自分の行動や言動を省みることは必要だ。

また、過度に禁欲的・自虐的になってもいけない。欲求を満たすことも、また自分を適切にコントロールすることも、共に人間性のあらわれだと思うから。

 

倫理的な思考と行動を通して善悪のバランスを均衡させるのは、本当に難しい。完全な均衡状態を実現させるのは不可能だろう。

でも、その難しい目標を目指すこと自体が、そもそも倫理的なんだと思う。自分の中に価値的な緊張感を内在させて生きることは、まさに倫理が求めていることそのもののような気がする。