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sugimoto_t weblog

思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

僕の考える道徳と倫理

哲学や倫理や宗教に関すること

道徳と倫理は、似ているけど、別物だ。

 

たとえば、「誰かと会った時は、きちんと挨拶しよう」というのは道徳ではあるけど、倫理ではない。「何をもって、人間の死と考えるのか」というのは倫理の問題だけど、道徳の話題とは言えない。

 

僕の考えでは、道徳というのは、他律的で外在的なものだと思う。

だから、道徳は、組織とよく合う。

組織も元々は目的の実現のために存在していたはずだけど、組織が確立されていくにつれ、真の目的を次第に忘れていく。というよりも、組織の維持が第一の目的になってしまうことによって、当初の理念は脇に置かれるようになる。
そのような組織で重宝されるのが道徳だ。道徳は人びとの行動や思想を表面的に統制する。組織の維持のために、道徳ほど有効なものはない。ブラック企業や雰囲気の悪い運動部が、やたらと礼儀正しさ(道徳)を求めるのはそのためだ。

 

僕が道徳に縛られた代表的な人物としてイメージするのは、旧約聖書や律法の文面に振り回されていたパリサイ派だ。
パリサイ派は道徳を遵守していた。しかし、彼らはその道徳の本体の目的を忘れていた。道徳は本来神の愛の実現を助けるものだったはずである。だから、道徳の本来の目的を忘れた彼らの言葉や行いは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイによる福音書 5:17)というイエスの言葉の前に、完全に無力化してしまう。

 

これに対して、倫理は個人的だ。
倫理は、その人間自身の生き方を問う。倫理では、つねに人は問いかけられており、考えることを迫られている。答えが出るかどうかはともかく、少なくとも答えを出すための努力は求められる。だから、倫理的であることは、自由であることも意味する。

 

同時に、倫理は普遍的でもある。

倫理に応える考察は、人間の自由の根本的な行為だとしても、普遍的な価値への配慮を含んでいる。たとえその人間が必死に考え出した答えであっても、たとえば倫理が殺人を容認することはない。だから、ラスコーリニコフは決して倫理的ではない。

 

かつて、宮台真司は、道徳を人間の視点、倫理を神の視点と表現していた(はずだ)けど、僕の理解もほぼ同じだ。僕が言う「普遍」は、宮台が言う「神」と取り替えることができる。この「神」はユダヤキリスト教的な神を言っているわけだけど、「神」は様々な場面で人間に対して規範的な問いかけを行う。人間は、この「神」に試されてばかりいる。そのため、人間はつねに自分に関する内省を要求され続けることになる。

 

だから、僕の中では、 倫理的に生きることと、内省的に生きることと、人間らしく生きることと、自由に生きることは同じ意味を持っている。

人間は、表面的な道徳に束縛されてはいけない。だけど、自分の行動や言動を省みることは必要だ。

また、過度に禁欲的・自虐的になってもいけない。欲求を満たすことも、また自分を適切にコントロールすることも、共に人間性のあらわれだと思うから。

 

倫理的な思考と行動を通して善悪のバランスを均衡させるのは、本当に難しい。完全な均衡状態を実現させるのは不可能だろう。

でも、その難しい目標を目指すこと自体が、そもそも倫理的なんだと思う。自分の中に価値的な緊張感を内在させて生きることは、まさに倫理が求めていることそのもののような気がする。

 

僕は理想主義でありたいと思う(改題)

社会や政治に関すること

日本ではリベラルや左派の理想主義は批判されることが多いけど、反対に僕は日本のリベラルや左派の問題は理想を高く掲げないことにあると思っている。

 

先日の退任演説もそうだったけど、オバマの演説がうまいことで有名だ。彼の演説は感動的なものが多い。理想を高く掲げていることも特徴だけど、それ以上に感動的なところがミソだ。

logmi.jp

 

感動的というのは、感情的とは異なる。

感動にはココロだけでなく、アタマの作用も影響する。理性に働きかける。だから、感情的な見解は共有されにくいが、感動は様々な人と共有することができる。

 

しかし、広く社会の人々からの支持を得るためには、感動だけでは足りない。

たとえば、鳩山内閣の施政方針演説を見ると、実はなかなか高尚なことが書かれている。だが、あの当時、鳩山内閣の方針に感動し、それに賛同して、積極的に政治に関わっていこうなどと思った人を僕は知らない。少なくとも、僕の周りにはいなかった。

 

なぜ、オバマの語る理想は、感動的に聞こえるのか?

それは、やはり、オバマの理想主義が、机上のものではなく、現実の社会から生まれたものだからだと思う。オバマは、人種的・宗教的マイノリティとしての出自を抱えながら、努力の末、大学を出て弁護士になり、貧困者の支援活動などを経て政治の世界に入った。そんなオバマの語る理想だから、普通の人間も納得できるし、感動することもできる。

要するに、現実に根ざした理想主義しか、人を感動させることはできないということだ。

 

ただ、そうなってしまうと、軽々しく理想を語ることができなくなってしまう。 

にもかかわらず、僕は左派やリベラルには、堂々と、確信をもって、理想を語って、人々を感動させてもらいたいと思う。

社会の大多数の人々は、その仕事や暮らしの中で、常に現実的に考えることを迫られている。現実的に考えることしか許されないと思っている。

一方で、そんな人々の多くも、この世から理想が消滅してしまうことがいいとは決して思っていないはずだ。

だとすれば、せめて左派やリベラルを自称する人間くらい、理想を語ってもいいのではないか。というよりも、きれいごとを、恥ずかし気もなく口にすることが、左派やリベラルの責務だと思う。

 

椎名林檎についての本当にちょっとした話

音楽に関すること

以前から、椎名林檎はよく聴く。

時折、その過剰さに辟易して遠ざかるけど、でもしばらくするとまた聴き出す。それも、何回も何回も。

要するに、椎名林檎が好きだということ。

 

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