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僕がカントを好きな理由

僕は、カントという哲学者が好きだ。

 

www.philosophyguides.org

 

厳密に言うと、僕は必ずしも哲学的・倫理学的・宗教的立場や考え方を完全に肯定しているわけではない。そういう意味では、厳格なカント主義者ではない。

でも、僕は、哲学というものは決して一部の研究者のものではなく、それは普通の人間の生きる支えになることも重要な役割だと思っている。

僕のカント理解はつまみ食いだし、不完全だ。でも、それでも構わない。少なくとも、僕はカントの言葉を生きる支えのひとつにしていることは間違いなんだから。

 

そう、僕が好きなカントの言葉は、例の定言命法。ベタだけど、それは広く受け入れられるているからベタなんだ。

 

第一の定言命法

「君は、君の行動原理が同時に普遍的な法則になることを欲することができるような行動原理だけにしたがって行為せよ」

(「君が行為するときに依拠する行動原理が、君の意志にしたがって、普遍的な自然法則となるかのように、行為せよ」)

 

第二の定言命法

「君は、みずからの人格と他のすべての人格のうちに存在する人間性を、いつでも、同時に目的として使用しなければならず、いかなる場合にもたんに手段として使用してはならない」

 

第三の定言命法

「みずからを普遍的に立法するものとみなすことのできるような意志の行動原理にしたがって行為せよ」

(君の採用する行動原理が、同時にすべての理性的な存在者の普遍法則となるように行為せよ)

 

カント(中山元訳)『道徳形而上学の基礎づけ』(光文社古典新訳文庫)より

 

 

どうだろう?

いまだに、これに優る道徳原理は、あるだろうか?

現在のきわめて洗練された倫理学の議論からすると、大カントの定言命法も問題点だらけかもしれない。でも、普通の人間が、普通に生きていく中で、これだけ簡潔でありながら、必要なことはすべて言っている道徳原理はそうはない。

 

一般に、カントの定言命法は、自らを律するための原理として受けとられがちだけど、これは同時に自分という人間がいかに尊厳のある存在であり、まただからこそそれにふさわしい扱いを受けることができる存在であることを認識するためのものでもある。

そのことは、第二の定言命法により率直に表現されている。

 

僕らの誰ひとりとして、どこかの誰かの、まして組織や共同体の手段やコマとして扱われてはならない。

誰かの欲求を満たすためのイジメの対象にされてもいけない。

性的欲求を満たす道具として扱われてもいけない。

企業の組織の一次的な利益のための道具にされてもいけない。

国家の威信を守るための捨て石にされてもいけない。・・・

 

やはり、本来的には、カントの定言命法は自らを律するためのものだと思う。

つまり、自分が他人を道具として扱ってはいけないことをルール化したものだと思う。

同時に、これは自分が不当に虐げられていると自覚した時、自分の尊厳を守るための主張の根拠にもなる。

もし自分が適当な都合あわせのコマにされていると感じたら、僕らはきちんとそれを主張することができる。

 

「僕は、あなたの道具じゃない」

そう主張することができるし、 そうしなければいけないんだ。

 

そんなに怒らないで。

別に「いい人」ぶる気はないけど、僕は争いごとが嫌いだ。

 

幼稚園児の頃、母方の祖母の家に行くと、従兄弟もやって来ていた。彼らは、年子の男ふたり兄弟で、弟はたしか僕と同い年だった。

すると、彼らは突然殴り合いのケンカを始めた。

僕はひとりっ子なので、これがいわゆるケンカを目にする初めての経験だった。

僕は同世代の男の子の殴り合いを見て、ブルブル震えが止まらなかった。そして、その晩、熱を出した。

 

僕は、とにかく、いろいろな意味で「力」がぶつかり合う様子を見るのは嫌いだ。

 

だから、格闘技は嫌いだ。というか、スポーツは基本的にすべて嫌いだ。

肉弾戦ではないとしても、たとえばテニスのような一見スマートなスポーツも、その根底には強烈な闘志が存在している以上、やはり嫌いだ。

もちろん、高校野球もダメだ。

 

こんな僕なので、「北斗の拳」は見たことがない。「ドラゴンボール」だって、僕からしてみたら暴力的だ。

だから、子どもの頃は、ほとんど女の子向けのアニメを見ていた。

 

この性格は、今も変わっていない。

たとえば、会議でおじさんたちが怒鳴り合っているのも苦手だ。その場にいると、本当に生気を吸い取られる。

 

ネット上のやり取りも、見るものを注意深く選ばないと、本当にしんどい。

場所によっては、ものすごく強力な悪意と憎悪があふれているから。

 

最近は、僕みたいな人間のことを「ハイリー・センシティブ・パーソン」(Highly Sensitive Person)と言うらしい。

ハイリー・センシティブ・パーソン - Wikipedia

 

「心理学や精神医学は、何でもレッテルをはる」と批判する人もいるけど、実際に何らかの症状や性格的な問題で苦労している人にとっては、自分の抱えている問題が明確になるだけでも気持ちがラクになるものだ。

 

ただ、そうはいうものの、レッテルをはったところで、生きづらさはあまり変わらない。

あいかわらず、社会や世間、また周囲の人間は、男には「強さ」を求める。

ささいなことで動揺してしまう自分のような人間は、基本的に「劣った人間」ということになる。

 

でも、そんな「劣った人間」である僕からすると、「そんなに、みんな、強がって生きていて大変じゃないの?」と思ってしまう。「なんで、みんな、そんなに闘いばかり求めるの?」と思う。

 

世の中には、闘わなければいけないものもある。

たとえば、人種差別などは、闘ってくれた人がいたから少しずつ小さなものになっていった。こういうものは、闘う価値があることだ。

しかし、しょうもない、小さなことで、みんなが怒りまくっているのが、僕にはまったく理解できない。

そんなことをしていたら、かえってカラダがもたないんじゃないかな。

 

だから、来年は、みんな、もっとのんびりと、やさしくなろう。

もう少し、いろいろ楽しい気持ちでいよう。

 

「home」がない話

どの場所に対しても、どの組織に対しても、また誰に対しても、完全に身を委ねることができない。完全に信頼することができない。

 

地方出身で、東京にやって来て、首都圏で暮らしている。ついでに言えば、今は海外に滞在中だ。このどこにも完全な貴族意識が持てない。

地元に対しては、他よりも強い思い入れがある。しかし、人生の半分以上を東京周辺で過ごした人間にとって、故郷とは言え地方都市での居心地は決して安楽なものではない。帰省すると、時にうんざりさせられることがある。

かといって、生粋の東京人でもない。生まれながらの東京人は、何かが違う。

 

このような場所に関することだけでなく、私には「home」と思えるものがない。

根底的なところで、すごく孤独な感じがする。

 

何かのこだわりがあって、自信をもって自分だけの世界を築いている孤高なら、カッコいい。

でも、私は違う。本当は、「home」がほしくてたまらない。さびしくて仕方がない。でも、帰る場所がない。

 

みんな、そんなものなのだろうか?

みんな、本当は「home」に値しないものでも「home」だと思い込んで、日々の暮らしを送っているのだろうか?