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思ったこと、書きたいことを、ちょこちょこと書いていきます。

「home」がない話

どの場所に対しても、どの組織に対しても、また誰に対しても、完全に身を委ねることができない。完全に信頼することができない。

 

地方出身で、東京にやって来て、首都圏で暮らしている。ついでに言えば、今は海外に滞在中だ。このどこにも完全な貴族意識が持てない。

地元に対しては、他よりも強い思い入れがある。しかし、人生の半分以上を東京周辺で過ごした人間にとって、故郷とは言え地方都市での居心地は決して安楽なものではない。帰省すると、時にうんざりさせられることがある。

かといって、生粋の東京人でもない。生まれながらの東京人は、何かが違う。

 

このような場所に関することだけでなく、私には「home」と思えるものがない。

根底的なところで、すごく孤独な感じがする。

 

何かのこだわりがあって、自信をもって自分だけの世界を築いている孤高なら、カッコいい。

でも、私は違う。本当は、「home」がほしくてたまらない。さびしくて仕方がない。でも、帰る場所がない。

 

みんな、そんなものなのだろうか?

みんな、本当は「home」に値しないものでも「home」だと思い込んで、日々の暮らしを送っているのだろうか?

 

 

悪意に対処する

僕たちは、どうやって悪意を持った人と付き合っていくべきなのか?

 

実のところ、世の中にそれほど悪い人はいないと思う。

ただ、残念だけど、少数かもしれないが、悪意を持った人は必ず存在する。タチが悪いのは、そういう人に限って権力者だったりすることだ。

だから、僕たちはこういった人との付き合い方を考えておかないといけない。

 

この手の人たちと上手くやっていくには、まずは彼らに服従して、彼らの言うことを「はい、はい」と聞いておくことだ。たぶん、そうすれば、当座の害は避けられる。

 

でも、そんな状態は続かない。

そんな理不尽に長い間耐えられるほど、僕らの精神は強くない。

だから、やはり、何らかの抵抗を行わなければならない時が必ずやってくる。

 

だが、相手は権力者。

弱小な僕らが、実力行使で抵抗してもつぶされるに決まってる。

 

そんな僕らにできる抵抗は、やはり誠実であることしかない。

権力者の要求がその立場に立った当然のものであったとすれば、いくら問題のある人物の命令だとしても、それには従うべきだ。

 

でも、それが理不尽なものであったとすれば、常識を逸脱したものであったとすれば、そして自分の人間としての尊厳を著しく損なうような要求であったとすれば、その要求の問題を明らかにして、そして自分はそれに従うことはできないことを述べて断るべきだ。

 

その時、僕らは、誠実に、そして礼儀正しくなければいけない。 いくら相手が傍若無人でも、僕らが傍若無人であっていいはずはない。

僕らが彼らに勝てるのは、誠実さしかない。自分の尊厳を守りつつ、誠実に向き合う。もちろん、自分たちに対して直接的に害をなしてきたら闘うべきだ。でも、その時でも誠実さを忘れてはいけない。

 

精神的、倫理的に正しいことは、弱い僕らにとっての最大の武器になる。

僕らが闘うのは、相手を陥れるためではない。僕らは、自分の尊厳のために闘うべきだ。

決して、相手の人間性のレベルにまで、自分を貶めてはいけない。

 

こんなことを書くと、きれいごとだと思われるけど、落ち着いて考えればこれが最も現実的な対処法だと理解してもらえると思う。

 

「祈り」の場所

キリスト教ユダヤ教の会堂と日本の神社仏閣を比べると、いくつか大きな違いがある。

 

第一にキリスト教会の多くでは神父や牧師は会衆と直面して、祭壇に背を向けることが多い。

カトリックの場合は、多少祭壇(というよりも聖櫃)を向くことがあるけど、それでもミサのほとんどの時間は会衆側を向く(まあ、これに関しては第二バチカン公会議でたいへんな議論があったんだけど)。

キリスト教の場合、カトリックにしろプロテスタントにしろ、程度の差こそあれ神の遍在が意識されているから特定の方向に向く必要がないのかもしれないけど。

 

これに対して、神社仏閣の場合、僧侶や神官はほとんど祭壇側を向いている。

法話みたいなものが行われて参列者と向き合うことがあったとしても、時間的には圧倒的に参列者に背を向けていることの方が長い。

 

第二の違いとしては、キリスト教の教会と比べると、神社仏閣には「祈る」ための場が存在していない。

このように書くと意外に思われるかもしれないけど、例えばそこそこ参詣者がいる神社仏閣ではたいてい賽銭箱が置かれ、そこに向かって人々は列を作る。この時、実際に参拝できるのは最前列の人だけだ。最前列の人は後ろの人たちに気を遣って、形式に則った参拝はするけど、すぐにその場を後にする。

昔は参籠という形で長期間お寺などに籠るといいことも行われていたようだけど、それは稀な例だと思う。

ただ、その中で浄土真宗は例外的だと思う。例えば、京都の東西の本願寺に行くと、無料かつ自由にお堂の中に入り、いつまでもそこで祈る(真宗の場合、「祈る」という言葉には注意が必要なんだけど)ことができる。この点は、キリスト教浄土真宗の教義的な類似性が影響しているのかもしれない。

これに対して、東方正教会を除くと、キリスト教会には確実に何列もの椅子が用意されている。別に前に座ったからご利益があるなんて考え方はないから、人々は思い思いの場所に座って何時間でも祈ることができる。

 

つまり、日本の神社仏閣は宗教者と密に接触する機会も少なければ、個人が祈るための場もないということになる。

そのため、多くの日本人にとって神社仏閣は心が和む「風景」になってしまった気がする。

もちろん、夢窓疎石のように風景的なものの中に宗教的な真理を仮託しようとした人はいるけど、ほとんどの人はそれを読み取れない。

だから、もし神社仏閣以外に心が和むものがあれば、人々は簡単にそちらに移ってしまう。

 

日本はすごく豊かな宗教文化が持続してきた社会だから、やっぱりお寺がなくなってしまうのはすごくもったいないことだと思う。

そのためには、やはり本来の宗教的行為、つまり宗教者と信者や参詣者との密な交流と「祈る」ことの充実を図るべきじゃないかと思う。

 

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